「夕凪の街 桜の国」こうの史代

〜戦争,原爆……どんなに壊されても,失われても,命は紡がれ,たくましく生きていく。何度夕凪が終わっても終わらないように。〜

夕凪の街 桜の国icon

「夕凪の街 桜の国」<全1巻>
こうの史代/双葉社

1954年,アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で,静岡県のマグロ漁船が被爆した第五福竜丸事件が起きました。

そして,1955年には第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催されます。

本作の『夕凪の街』に登場する皆実(みなみ)は,原爆投下後の焼け野原で,死体をまたぎ,時には踏んづけ,死んだ人の靴や下駄を盗りながら逃げ惑い,生き延びます。父も姉たちも失い,友人も隣人もみな亡くなっていく中で,自分だけが生き残った罪悪感から,自分を責め,苦しみ,恋することも拒絶しようとします。

1994年初演の井上ひさし作『父と暮らせば』という戯曲の美津江に似ています。

美津江には原爆でなくなったはずの父の亡霊が彼女を励まし,笑わせ,ときに諭し,彼女の心を解けさせていきます。

皆実も,ようやく心が安らぐ男性との出逢いがあり,恋をしてもいいのだと肩の力が抜けます。
でも,原爆投下から10年後の1955年,23歳になった皆実は内臓の破片とともに黒い血を吐きながら死んでいきます。

「嬉しい?
十年経ったけど,原爆を落とした人はわたしを見て『やった!またひとり殺せた』と」ちゃんと思うてくれとる?」

皆実の最後の言葉です。
街には原水爆禁止世界大会のチラシが舞っています。

ですが,これが終わりではありません。
何度夕凪が終わっても終わっていませんと,こうの史代先生は物語を紡いで生きます。

皆実の弟・旭(あさひ)は成長し,結婚し,七波(ななみ)と凪生(なぎお)兄弟は元気に育ちます。
物語は,旭の青春時代,そして定年を迎えて故郷の広島に姉・皆実の思い出話を訪ねる平成の時代を描く『桜の国』へと続きます。

なおも続く原爆症の恐怖と差別が,七波と凪生の恋や友情と通して語られます。

こうの史代先生の作品といえば,アニメにもなった『この世界の片隅に』があまりにも有名ですよね。

戦時下の軍都呉市,悲惨さばかりにフォーカスするのでなく,そこにある日常をユーモアあるタッチで描き,希望を感じるラストは圧巻でした。

本作も同様に,それでも続いていく命,営まれ続ける日常が,さらっと描かれています。

原爆投下から10年後,40年後,60年後……大きな時代の流れ,登場人物1人1人の心情がとてつもなく丁寧に伝わり,わずか100ページほどの小品とは思えないのは,画力の素晴らしさに寄るところが大きいのでしょう。

若き父・旭が母・京花にプロポーズしたシーンに続いて,七波が語ります。

「けれど こんな風景を
わたしは知っていた
生まれる前
そう あの時 わたしは
ふたりを見ていた

そして確かに
このふたりを選んで
生まれてこようと
決めたのだ」

もう,もう,もう,見開き2ページのこのシーンを読むだけでも,本作を手に取る価値があります。

推薦者
小林美也子

Kobayashi miyako

教育&映画プロデューサー

漫画と映画で人生を学び,現在は各地で法律を教えつつ映画制作にも関わる。